おそらく明日、小泉首相は靖国神社に参拝するのだろう。中国・韓国からの反発は必死だろうし、新聞や雑誌、放送やネットでもあらためて賛否を問わず意見が百出することだろう。なので、その前にぼくも自分の意見というか考え方をまとめておきたいと思う。
まず簡単にいうと、8月15日の小泉首相の靖国参拝には反対である。その理由はいくつかあるが、これを読んだときに、その所謂「靖国問題」との距離のとり方に共感できた坪内祐三の文章を引用してみたい。
(前略)八月十五日に、靖国神社は、特別な行事を行わない。だから、その日に靖国神社に参拝に行っても、「御霊」たちと交信することは出来ない。(中略)もし「英霊」たちの「御霊」と交信したいのなら、七月十五日のいわゆる盂蘭盆に合わせて、戦後、一九四七(昭和二十二)年に創設された「みたままつり」がある。八月十五日に参拝するのなら、まだ、七月十五日の「みたままつり」に参拝する方が、それなりの筋が通る。
私は、小泉首相に、八月十五日の「公式参拝」を見送って、この秋の、秋季例大祭での「公式参拝」復活を望みたい。三木武夫以前の歴代総理がそうしていたように。そしてその時には、ボディガードなど連れてきて欲しくないし、今や有料駐車場になってしまった招魂斎庭跡も訪れて、その様子をしっかりと目にやきつけていってもらいたい
from : 靖国神社と「靖国問題」『後ろ向きで前へ進む』坪内祐三
いきなり引用が少し長くなってしまったが、ぼくが是非この文章と対比させたいと思ったのは、次のような小泉首相の発言である。
私は、総理大臣就任以来、心ならずも戦争で命を落とさざるを得なかった方々へ哀悼の誠を捧げるために、毎年一度靖国神社に参拝しています。
(中略)私を批判するマスコミや識者の人々の意見を突き詰めていくと、中国が反対しているから靖国参拝はやめた方がいい、中国の嫌がることはしない方がいいということになるように思えてなりません。
そういうマスコミや識者の方々は、思想及び良心の自由をどう捉えているのでしょうか。戦没者に対して、敬意と感謝の気持ちを表わすことはよいことなのでしょうか、悪いことなのでしょうか。
from : 小泉内閣メールマガジン 第245号
先の坪内氏の文章よりも格段に歯切れのよい、実にわかりやすい小泉首相の発言だ。特に引用した最後の部分の「よいことなのでしょうか、悪いことなのでしょうか」は、ちょっとこれ以上ないくらいにわかりやすい。小泉首相にとって「靖国問題」とは、いいか/悪いか、なんですな。でも本当にそれでいいの?
ぼくは小泉首相の8月15日靖国参拝には反対ですが、と同時に、中国・韓国による「靖国問題」への批判の一部は内政干渉にあたると思うし、特に中国のように外交カード化するやり方には反感を持っています。
・・・ほら、少なくともぼくは「中国が反対しているからやめろ」論者ではないでしょ。
中国に対しては毅然とした態度とねばり強い努力で「靖国問題」のダマになった部分を解きほぐすような説得が必要です。そしてそれは、靖国神社に問題があるという前提に立ったとしても、決して「A級戦犯合祀」が中心となるようなことではないと思います。ぼくは明治維新以降のこの国がどういう風にデザインされていったかという流れと分けて、靖国神社(旧・東京招魂社)のことを考えるのには意味がないと考えます。靖国神社は「太平洋戦争」専用神社ではありません。どうも歴史認識がどうだとか意見に幅が出るような議論には熱心な人が国の内外を問わず多いような気がしてならないのですが、靖国神社は1869(明治2)年に戊辰戦争の官軍戦死者を追悼するために建てられた、という基本的な事実とそこからの考察によって立つ議論を踏まえないと、毅然とした立場で中国・韓国を説得する意見もまとまりようがないのではないでしょうか。
ぼくが「靖国問題」で考えたいのは、まさにそのことで、「日本国内での靖国神社の位置づけをはっきりさせる」ことが重要かつ最大のポイントである、ということです。素朴な疑問として、A級・B級・C級(これもわかりやすい記号ですネ)がどうこうよりも、官軍の戦死者を祀る施設に、主に太平洋戦争時に「戦死ではない」人、各戦犯や戦地で戦闘行為以外で亡くなった人や朝鮮・台湾などから徴用された人が祀られている一方で、広島・長崎の原爆犠牲者(広島は軍需産業の都市だったから原爆投下目標にされたという説をとるのであれば尚更)や沖縄戦の犠牲者(仮に本州が地上戦になっていた場合にそこで抵抗したり虐殺された日本人は靖国に追悼されていたのでしょうか)ことの「矛盾」が、気になってしまいます。もちろんそれはぼく個人の勉強不足であって、いろいろと興味を持って調べていけば、解決されうる疑問なのかもしれません。
ただそういった靖国神社に関するさまざまな疑問や考え方が、「いいか/悪いか」「中国に味方するのか/しないのか」などのわかりやすい単純なものの見方の持つ大きなローラーの如きパワーの前に塗りつぶされてしまう危機感、これこそが「靖国問題」の問題なんじゃないでしょうか。
ぼくが小泉首相の8月15日靖国参拝には反対なのは(まあ、あえてこう書いていますが過去の別日の参拝にも反対でした)、首相の発言や姿勢の中に、靖国神社という施設への理解や意識、ひいては日本という国への理解や意識が見えてこないからです。曖昧なのか、単純なのか・・・。いずれにしろ「心ならずも戦争で命を落とさざるを得なかった方々へ哀悼の誠を捧げる」のにふさわしい態度ではないと思います。「公約だから守る」「心の問題だ」というのは、行きたいから行くといっているだけであって、小学生が意地をはって半袖半ズボンで皆勤賞を貰う(今どきそんな子はいないかも)のと同じですよ。そこにわかりやすさは合っても、国内で問題を議論したり、外国を説得できるような姿勢が望めないことは明らかです。
国を愛するということは、国の矛盾に目をつむることとイコールではないし、伝統や文化を継承するということは、歴史から適当に都合の良い部分をピックアップしてきてコピー&ペーストすることとイコールでは無い筈です。
場当たりの方便として、国や伝統や心や平和といった言葉を安易に使うべきではありません。それこそが先人たちの思いを冒涜していると感じるのはぼくだけでしょうか。
最後に、大いに余談ですが、さっき「招魂」と変換しようとしたときに「商魂」と出てきて、しばらく眺めてしまいました(^^;
商魂かあ、今の日本にはぴったりだなのかもなあ、と思って、ネ。
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