2005/08/01

T.S

2005年7月15日未明、友人のTくんが死にました。自殺でした。36歳でした。

彼と知り合ったのはは高校1年生のとき。違うクラスだったのですが、ぼくのクラスメイトの友人が彼のクラスにいたので、次第に言葉をかわすようになりました。そこからなんだかんだで20年ですか。短いような、短いような(^^;
他の仲間と一緒にぼくの部屋にもよく来ていたし(家出だ、なんつって2晩くらい泊まってったこともあったなあ)、彼の家にもよく行ってました(すぐに思い出せるのは1989年の正月明け。小渕が例の「平成」と書いた紙を掲げてたニュースを見たのは彼の家でした)。卒業後も交流は途絶えず、ぼくが高円寺のアパートで一人暮らししてた部屋にもちょくちょく来てました。当時の彼の彼女と一緒に来たこともあったような気がします。仲間が皆、働きはじめたりとかで忙しくなってからも最低でも年に一回の忘年会では顔を合わせていたし、ここ数年はメールや(お互いにホームページがあるので)書き込みやらでちょくちょく連絡取り合ってたので、とくに疎遠になったことはないと思います・・・少なくともぼくが思うに。

で、ここはOnlineだからネット関連のことも少し書いておきます。彼は比較的早くからPC使いだったので、ぼくが仕事外ではじめてパソコン通信に触れたのは彼の部屋で、でした。たしか音楽関係のフォーラムなどに出入りしていて、リアルタイムでやりとりができるという画期的な様子を彼の横から覗き込んだ画面で確認して、「すっげーなー」と思ったことを憶えています。
そこから数年後。ぼくが見様見真似でホームページをつくりはじめて少ししたのち、彼からのアクセスがありました。そしてその直後、だったと思いますけど、彼もホームページをつくりはじめました。おそらくぼくのホームページをイチバン熱心にチェックしていたのは彼だったと思うし、彼のホームページを(イチバンにでもないと思うけど)それなりに熱心にチェックしていたのはぼくです。いつでも電話して飲みにいける仲なのに、なぜかこういう関係として過ごした数年間というのが、うーん、なんとも不思議なような、必然のような・・・。

あたり前のことを書いちゃいますが、今回この件の連絡を受けてから非常にショックだし今でもどこか落ち着かない毎日を過ごしています。正直このブログにもこのことを書こうかどうしようかまだ迷っていたりもします。まあしかし上記のような経緯も含め、ネット上にそれなりの事実として彼のことを書くとしたら、それはやっぱりぼくの役目なんだろうな、と思いなおし、やっぱり書いておくことにしようと、今、書いています。うん、まあ長々書いていますけれど、このエントリーの最初の一行が今回ぼくがネット上に書くべきこと、書かなきゃいけないことだろうと思いますんで、書いておいて良かったと思い込むことにします。文章めちゃめちゃですけれど、それ以上に心中複雑なもんで、それはもうあきらめてください(>_<)。

そんでもって、これを彼のブログの最新エントリーにトラックバックしておきます。多分、彼のブログとホームページは彼が設定した契約期間(それがいつまでなのかわからないけど)が終了すればなくなってしまうと思われますが、それまでの間、彼のことを知りたい方がトラックバックを辿って、ここで事実の確認をできるようにしておくのが、今のぼくにできる数少ないことの一つなので、そうします。これでいいっすか、Tくん?

>>White Well Weblog by Francois Quevouxquien
>>

※あと関連していると思われるいくつかのblogにもTBしておきます。不都合もしくは不本意な方がいらっしゃいましたらmailください。

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2005/07/12

橋本真也

昨日の衝撃から、ようやく少し落ち着いてきました。ただまだビデオを見返したりとかできないなあ、ツラくて。

事実として正直に書きますが、決してイチバン好きだったことはないプロレスラーです。しかし、84年のデビューの頃から・・・・・・ずっと見てきたプロレスラー。ちょうど「ワールドプロレスリング」が金8時から他の曜日に、さらにはゴールデンタイムを外れ夕方へ深夜へと移行していったり、クラスの連中なんかがだんだんとプロレスから離れていったのとカブる時期のことです。とはいえ、新日本プロレスはドーム大会やG1クライマックスといったヒット興行も生んでいたので、プロレスが斜陽した時期というより、プロレスが世間のモノからマニアのモノへと変化していった時期といえるかもしれません。そんな時代の新日本の、ある意味、ど真ん中に立っていたプロレスラーが橋本真也です。

実はオレ、「闘魂三銃士になんか思い入れはない」なんてどっかで口にしたような記憶もあるけれど、失ってはじめて気付くその存在のデカさに、我ながら少々唖然としています。尊敬や憧れの対象だった猪木やハンセン、長州や藤波らのマイ・ヒーローとは違う、リングの上と観客席とで同時にプロレスを支えてきた同士として、深い深い共感の対象としての「闘魂三銃士」は、やっぱり大切な存在でした。

そして、できれば、その思いに気付くのが、「引退の」10カウント・ゴングの時であってほしかった。

今はただ「橋本選手、おつかれさまでした&どうもありがとうございました」とだけ書いておこうと思います。


>>ウルトラマンガイア 9(DVD)
>>橋本真也選手が、プロレスラー役でゲスト出演した第34話「魂の激突!」を収録したDVD。橋本選手はケサ斬りチョップで宇宙人を迎撃(だったかな?)・・・笑えます(^^;

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2004/07/28

中島らも

訃報:中島らもさん52歳=「ガダラの豚」などの作家
中島らもさん階段から転落し脳挫傷で死去
中島らもさんが死去-小説や劇団などで活躍

ショック・・・だし、なんだか寂しくもありまたくやしくもあるような複雑な心もち。
らも関連で一番印象に残っているのは、80年代後半にCXの深夜でやっていた「クリティックス」という景山民夫がホストを務めていたトーク番組のゲスト出演時のものですね。ボソボソしたハッキリとしない口調ながら、ボロっとおもしろいことを言う独特のらもトークの味をわかっていてきちんとフォローする景山とのやりとりをほほえましく見ていた憶えがあります。2人とも大のプロレスファンという共通点もあり、それはぼくとの共通点でもあるため、ホントに大好きな人たちでした。今ごろ天国で再会しているかと思うと、そっちも早くのぞいてみたくなるなあ。
その番組は景山とゲストが何冊かの本を紹介しあいながらトークするという形式になっていて、たしからもは「チョコレートからヘロインまで」という古今東西のドラッグカルチャーに関しての考察本とか「悪魔を憐れむ歌」というローリングストーンズの伝記本を「これねえ、注釈だけ読むとえらく詳しいドラッグの百科事典なんですよ(えへへ)」などと言いながら紹介していましたね。もちろん放送後ぼくは両方ともすぐに買いに走り、学校では教えてくれない類の知識をたっぷりと仕入れましたよ。
作家としての中島らもの印象は、とにかく「優しい文章」を書く人でした。
今思い出せる範囲のぼくのお気に入りは
恋は底ぢから
僕に踏まれた町と僕が踏まれた町
お父さんのバックドロップ
超老伝~カポエラをする人~
今夜、すべてのバーで
ガダラの豚
クマと闘ったヒト
牢屋でやせるダイエット
こんな感じ。アルコールもドラッグも恋愛も青春も牢屋もプロレスもロックもなにを書いても、それこそ「クマと闘ったヒト」のようなMr高橋本以前に書かれたプロレスの内幕暴露本(!?)なんかまでも、とにかくとてもとても優しい。多分それは自分のことも周りのこともよく見えてるからなんじゃないかと思う。よく見えるということは、上っ面だけでない本当は隠しておきたい弱さや狡さ醜さといったものまで直視しているということであり、さらには自らの汚い部分も「きれいな街/正しい街」に不釣り合いとされるホームレスや酔っぱらいのおっちゃん、チンピラや変人奇人、外人たちも、その存在を認め、さらには積極的に愛する目線、それが優しさなんだよね。
こんな優しい人をぼくらは、もう、こんなに早く手放してしまってよかったんだろうか。今の時代にこそ、こういう人は必要とされていたりはしないんだろうか。それとまだらもが生きて書いて喋っているときにぼくらやぼくらの社会が彼になにをしていただろうか。あえて書くが、たかだかハッパの煙を吸ったくらいのこと、で牢屋に閉じ込め罪を被せ、著書(牢屋でやせるダイエット)によればカラダの弱いらもが留置場内で死にかけたときにあやうく見殺しにしようとさえした、そんな社会をぼくらは積極的にのぞんでいるんだろうか。そんなバカな。
ただしジョン・レノンが死んでも「ジョンの魂」がボブ・マーリーが死んでも「キャッチ・ア・ファイヤー」がジミ・ヘンドリックスが死んでも「エレクトリック・レディランド」がこの地上にあるように、中島らもが死んでもその著作は地上に残りつづけます。憤ったり怒ったり哀しんだりは地上のぼくらがひきうけますから、安心してあちらで、手作りのあやしい弦楽器をポロンポロンと弾きつづけていてください。たくさんの「優しさ」をどうもありがとうございました。

>>さよなららもさん
じじいになったらもさん、ぼくも見たかったです。

>>作家の中島らもさんが死去「勝手に死ぬなや、ボケ!」
>「らも、そろそろ死にまっせ」と1年前ぐらいから広告宣伝費使いまくり、
>メディアミックスばりばりで事前告知とかあってしかるべきだったと思う。
ぼくもそう思う。本気でそう思う。カウントダウン・ライブとかするべきだったと思う。

>>さようなら、中島らも
>>らもさんが……

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2004/03/24

いかりや長介

忘れてたんだけど、小学校に上がる前の年だったかな?(1976年か)、父に連れられて日劇で「お正月だよ!全員集合」というドリフとキャンディーズの公演を見に行ってたことを思い出しました。
今となっては貴重なキャンディーズ体験は、ほとんどおぼえていなくて実に勿体ないんですが、ドリフはたしかお約束の「授業中コント」で、例の加藤茶の「ジス・イズ・ア・ペン」も聞けた筈。で、まあそれはそれとして、今ここで書きたかったのは、ぼくもかつて生「オーッス」に参加したんだよー、というささやかな自慢なんですけどね。
今の自分に直接つながる影響としては断然ドリフよりたけし、「全員集合」より「ひょうきん族」ではありますが、それよりももっと深い自我形成における要素としてザ・ドリフターズは欠くことのできない存在です。なんかそういう意味ではすごく「重い」んですよ、ぼくにとってドリフは。結局いかりや長介の訃報を聞いてから今日まで上記のきっかけを思い出すまでは、なんにも書けなかったし、書く気にもなりませんでした。あえて、ドリフのことを思い出したくなかったのかもしれません。でも今日は葬儀の日だもんね。長さんに「ありがとう」言えるのは今日までなのか、と思ったらやっぱりごく簡単にこれだけでも書いとくことにしました。

長さんも死んじゃったし、ドリフを見に連れて行ってくれた父もとっくにあっち行きだし、いつかぼくもあっちに行ったら、やっぱりまたドリフを見に連れてってもらって、大声で「オーッス」したいなあ。そんで「ありがとう」はそん時にあらためて言わせて下さい。

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2004/02/02

桂文治

■え~、10代目桂文治さんがお亡くなりになりました。ぼくがその高座にはじめて接したときからすでにおじいさんだった方なんですが、なんつーか非常にチャーミングな方だという印象がありまして(失礼かもしれませんが)、サラっと出てきて「湯屋番」とか「鼻ほしい」なんてのを軽ーく演ってフワっと下りてく姿が素敵でした。なんでも普段から日常生活すべて和服で、そのこだわりや暮らしぶりなど、絶滅寸前の江戸っ子(ことによるともう絶滅してますか?)の一人だったといわれております。面倒見も良かったようで弟子もたくさん育っています。今後はその方たちを通して江戸や江戸っ子の残り香を感じるしかないんですけども、でもやっぱりもう一度(といわず何度でも、ですが)文治さんの高座を見たかったな、見とけばよかったなあと後悔しております。

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